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橋の歴史
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■勝鬨橋
1940年6月に完成したこの橋の特徴は「跳ね橋」で全長約250mのうち、両側22mが跳ね上がり、下の隅田川を大型船も通行できる仕掛けがあります。「東洋一の可動橋」と呼ばれるほどの評判を得て、当初から、1947年から1968年まで1日5回、1回20分程開いていました。また路面電車用のレールが敷設されており橋上の晴海通りを都電が通行していましたが、交通渋滞問題等で1970年11月29日を最後に、二度と開くことはなくなりました。
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■永代橋
永代橋が架橋されたのは、元禄11年(1698年)8月であり、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を祝したもので、現在の位置よりもやや北側、(西岸中央区日本橋箱崎町、東岸江東区佐賀一丁目付近)当時大渡し(深川の渡し)のあった場所で、隅田川で四番目に作られた橋です。
「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説(「永代島」は「永代橋」から採られたとする)があります。 明治30年(1897年)、道路橋としては日本初の鉄橋として、鋼鉄製のトラス橋が現在の場所に架橋されました。明治37年には東京市電による路面電車も敷設されましたが(昭和47年11月に廃止)、関東大震災に被災し、木製の橋床を損傷し大正15年に震災復興事業の第一号として現在の橋が再架橋されました。 -
■清洲橋
1928年3月に関東大震災の震災復興事業として完成し永代橋と共に計画された橋。「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるような設計で、「震災復興の華」とも呼ばれた優美なデザインで、当時世界最美の橋と呼ばれたドイツケルン市にあった大吊り橋をモデルにしています(この橋は第二次世界大戦で破壊され、現在は吊り橋ではありません)。
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■新大橋
最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1693年)12月7日である、隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられました。江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたと伝えられています。
明治18年(1885年)に新しい西洋式の木橋として架け替えられ、明治45年(1912年)7月19日にはピントラス式の鉄橋として現在の位置に生まれ変わり、竣工後間もなく市電が開通し、アールヌーボー風の高欄に白い花崗岩の親柱など、特色あるデザインとなりました。そのため貴重な建築物として、現在愛知県犬山市の博物館明治村に中央区側にあたる全体の八分の一、約25mほどが部分的に移築されて保存されています。 -
■吾妻橋
創架は1774年(安永3年)10月17日のことで、それまでは「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった場所でした。江戸時代に隅田川に架橋された5つの橋のうち最後の橋であり、1769年(明和6年)4月に浅草花川戸の町人伊右衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が幕府によって許可され、着工後5年で完成したものです。
橋名ははじめ「大川橋」と呼ばれていました。これは近辺で隅田川が「大川」と呼称されていたことにちなみますが、しかし、俗に江戸の東にあるために町民たちには「東橋」と呼ばれており、後に慶賀名として「吾妻」とされた説と、東岸方面の向島にある「吾嬬神社」へと通ずる道であったことから転じて「吾妻」となった説がある。いずれにしても、1876年(明治9年)2月に木橋として最後の架け替えが行われた際に正式に現在の橋名である「吾妻橋」と命名されました。 後に関東大震災によって木製だった橋板が焼け落ちてしまい、一時的な補修の後1931年(昭和6年)に現在の橋に架け替えられました
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■桜橋
台東区と墨田区の姉妹提携事業として1980年に創架が始まり、1985年に完成した隅田川唯一の歩行者専用橋で、両岸の隅田公園を結ぶ園路の役割を持っています。形状は平面のX字形の特異な形をしており、花見のシーズンには、両岸の桜を楽しむために多くの人がこの橋を渡っています。 美しい橋で周辺との景観との調和を考慮して色彩や素材に工夫が見られる橋です。
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■中央大橋
1993年8月に完成し隅田川の数ある橋の中で最も新しい橋でしたが、2006年2月に千住汐入大橋完成によりその地位を明け渡すこととなった。時節柄、機能やコスト一辺倒であった昭和の橋とは違い、都市景観やデザインに気遣いをもたせてあるのが特徴です。夕刻から夜 10時までは、白色の水銀灯と暖色系のカクテル光でライトアップされ美しく、まさに中央区のシンボルとしての「中央大橋」の名に恥じないものとなっています。
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■隅田川大橋
1979年10月に完成した隅田川唯一の二層式のこの橋は、首都高速道路9号深川線建設にあわせて架橋されたもので、先に下段の隅田川大橋が、完成の翌年に上段の高速道路高架橋部分が開通しました。 二層式のため、本来対に設計された永代橋・清洲橋を仕切るかのように、双方から見通せなくなっていますが、隅田川にかかる橋梁のなかでも比較的新規に建設されたため高架部も高めに設計されており、そこからの眺めがよいものとなっています。